あこがれのアメリカ合衆国−ミネソタ大学から東工大へ戻って一 醤油臭い成田空港にたどり着いて、私のひとつの夢は終わりました。l0カ月という短期間ですが、東京工業大学化学工学科の先生方のご尽力により、ミネソタ大学機械工学科において研究する機会を得ることができました。アメリカ合衆国は私にとって学間を学ぶということのみならず、音楽的なあこがれ、広い白然へのあこがれ、余裕のある生活へのあこがれがあり、まさしく夢そのものです。 ミネソタ州はアメリカ合衆国の中央部の最北端にあり、五大湖のひとつのスペリオール湖に面しています。ミネソタ州のライセンスプレートに書いてある“Land of l0000 Lakes”のとおり湖が多く、自然が豊富な州です。ミネソタ大学はミネソタ州最大の都市ミネアポリスに位置し、キャンパスの中にはミシシッピ河が流れています。アメリカ中西部と言えば、厳しい冬の寒さが有名であり、私が行く直前の冬は史上希な寒さで死者が多数でたほどでした。しかし私がミネソタで過ごした冬は逆に史上希な暖かさで、史上最高温度を記録した日もあったほどでした。暖かいと言ってもそれはミネソタとして暖かいというだけで、氷点下30度以下になる日もあり、そんな日にはミシシッビ河も凍っていました。もちろん冬の間はすべての湖も凍り、その氷上を車で走ることができるほどです。 ミネソタ大学ではPfender教授とHeberlein教授とともに、アーク溶射システムの開発の研究を行ってきました。この研究室では日本よりも応用を重視し、また企業の要望に応えるための研究テーマか多かったように思います。私の場合は教授と企業の研究者を交えたディスカッションが何回も開かれ、滞米中は気を抜くことができませんでした。 充実した研究生活をおくることができましたが、もちろん夢のアメリカにいて研究ばかりしていては大損です。アメリカの黒人が生み出した素晴らしいブルースやソウルミュージックを聞くことが私の趣味のひとつですから、ミネソタ滞在中はコンサートやブルースクラブに何回も通いました。詳細はミネソタ音楽紀行をご覧下さい。 滞米中に起きた事件と言えば、O.J.シンプソンの事件と、急激な円高でした。円高と同時にマルク高も進行していたので、研究室でドイツ人の学生と毎日1ドルが何円、何マルクになったと喜んでいたことを思い出します。しかし私(正確に言えば妻)にとってはこの円高のおかげで何でも安く感じられて、浪費してしまい、逆に出費かかさんでしまうことになりました。日本人は金持ち(?)であるとミネソタ人に思い知らせてきた次第です。 阪神大震災とサリン事件も私の滞米中に起きた事件でした。この事件を聴いたときは私は余計に日本に戻りたくなくなったことを思い出します。 ミネソタの風景
家族の思い出
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